あたらしい糸に

 

 

いまから10年ほど前、岩手の雫石に移住してから数年たった頃のことだ。
「東北」という土地が内包する世界を見たいという思いで、各地の祭礼行事を訪ねることになった。
その頃の僕は、東北の祭礼に興味を抱く多くの人たちと同じように、目の前で繰り広げられる祭礼の営みのなかに「まだ見ぬ遠い世界」や「憧れ」を見つけようとした。
それはたとえば「縄文」であったり、「連綿と続く共同体の神話」であったりした。そして、そこには確かにその類の匂いもあり、それに触れることは甘美でもあった。
もし、僕が東北で生きることを決心していなかったらならば、そこで見つけた「遠い世界」に身を委ね、心地良くシャッターを切ることができただろう。
しかし、東北の同時代を生きる者として、見るべきことはもっと別なところにあるような気がした。
それは、いま、祭礼はどういうものなのかという現実的な問題だった。いうまでもなく多くの祭礼は形骸化している。遠い時代から信じられてきた大いなる物語は、すでに消えてしまっているのだ。簡単に言えば、祭礼は役目を終えた。そういう風に思えた。実際、行われなくなった祭礼も数多くあった。
しかし、その一方で、何とか頭数を集めながら変わらぬかたちで祭礼を続ける人たちの姿も多くあった。そんな人たちの姿は、僕に根本的な疑問をもたらした。“物語を失った祭礼をなぜ続けるのだろうか?”
その日から僕は、この問いの答えを探すべく、祭礼を訪ね歩いた。

そして、今、ひとつの仮説に近い答えをつかんだような気がしている。大いなる物語の代わりにこの地に暮らす人が探し出そうとしているものは、今の時代を生きる自分たちが、これからもこの土地で生きていくための新たな世界観ではないだろうか。彼らは、新たな糸をつむぐように、新しい世界観を仲間とともに見出し、物語を失い、空になった祭礼という器に満たそうとしているのではないだろうか。
あたらしい糸。紡ぎ出されたその先を見続けていきたいと思っている。