庭とエスキース

 他者の人生にカメラを向けることで、「生きること」に近づけるのではないか。そう思っていた25歳の頃の僕が出会ったのが、北海道に暮らす井上弁造さんだった。
 当時、78歳だった弁造さんは、がむしゃらに経済発展をし続けた戦後の日本社会に疑問符を投げかけるかたちで、自給自足の生活を営んでいた。
「今の経済社会が行き詰まったときに、立ち帰れる場所としての自給自足生活のモデル」というのが、弁造さんが「庭」と呼ぶ、森であり畑だった。
 そして、そうした社会的なメッセージとは全く無縁なものとして、絵を描いていた。絵は、そのほとんどが裸婦や母娘などの女性像で、ずっと独身で生きてきた弁造さんの世界からは遠いものばかりだった。
 僕は何かに導かれるように、弁造さん、庭、絵という三つを見つめることになった。  
 
撮影は長く続き、2012年4月に92歳で弁造さんが逝った後は、庭と遺品のエスキースがカメラを向ける対象となった。  
 一家族が衣食住を自給自足し、永続的に暮らせるような工夫を緻密に盛り込んだ庭は弁造さんの未来へのメッセージそのものだった。しかし、そんな庭も主人がいなくなることで自然に還っていこうとしていた。そうした庭の姿が投げかけてきたのが、人間が切望する“伝えること”の意味や難しさだった。それは、個が社会や未来にどう関わっていくか、ということでもあるように思えた。  遺品のエスキースもほとんどが女性を描いたものだった。幾重にも重ねられた線から生まれる無数の女性たち。それを繰り返し撮影しているうちに、弁造さんが描こうとしたのは、自らのリビドーだったのではないかと思うようになった。
 もし、そうだとしたら、弁造さんにとっての「庭」とは社会や他者との関わりをつくっていこうとする窓であり、「絵」は自らの胸の底を覗き込む窓だったのではなかろうか。
 
 弁造さんが逝き、早くも5年が過ぎたが、その間撮ってきた、あるいは生前に撮ってきた庭とエスキースたちは、不思議な力で僕に語りかけてくる。それは、弁造さんにカメラを向けることで得たものとは違った角度から、「生きること」の質感と温度を伝えてくるようだ。
 この感覚に包まれるたび、写真を撮ることで他者の「生きること」に近づけるのではないかという20年前の思いに至り、僕たちはまだまだ「生きること」の中心にいると確信する。